チンパンジーとボノボ 似ているのに性格は正反対

 朝日新聞Digital《科学の扉》の記事ですが、人間の性格を考える上で興味のある内容なので転記します。右翼化する政策に対するメッセージとも受け取れます。

 アフリカの熱帯雨林で、人間に最も近い類人猿の研究が進んでいる。チンパンジーとボノボ。見た目はそっくりだが、片やオスを中心とした集団で強い攻撃性が見られ、片やオスとメスが対等な平和な営みを築く。進化の過程で何かが起きたのか。


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 東アフリカ・マハレ(タンザニア)の森で2011年10月、研究者を驚かせる事件が起きた。

 チンパンジーの集団で、順位が1位のオスが仲間に殺されたのだ。このオスは2位のオスとけんかして負傷。騒ぎで集まったオス4頭が取り囲んで攻撃した。現地で研究していた井上紗奈・日本大研究員は「殺されたオスの力は圧倒的で、それまで明らかな対立関係はなかった。想定外だった」と振り返る。相手が弱ったと見るや、ライバルを倒す好機と捉えたらしい。

 アフリカの熱帯雨林などに住むチンパンジーの研究は1960年代に始まった。身ぶりや表情、音声を使った多様なコミュニケーションや、木の枝でアリを釣るといった賢さが注目される一方、強い攻撃性も明らかになってきた。

 70年代に観察された例では、二つに分裂した集団のオスたちが、もう一方の縄張りに侵入してメンバーを次々に殺害。残されたメスは攻撃した側の集団に加わり、片方の集団は消滅してしまった。カリンズ(ウガンダ)でも2003年、隣の集団に殺されたと見られるオスの死体が見つかった。

 カリンズで約20年調査を続ける京都大霊長類研究所の橋本千絵助教は「これまでに確認された殺害事例は2件。決して頻繁に起きているわけではない」と話す。ただ、相手が死ぬまで積極的に攻撃する行為は、ほかの哺乳類ではほとんど見られない。研究者は「戦争」とも呼ぶ。


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違いは「先天的」

 なぜ「戦争」が起きるのか。20年ほど前から二つの説が対立していた。一つは、食料や交尾の機会を得るため「生まれつき」だとする説。もう一つは、人間の開発に伴う生息地の破壊や、研究者の餌付けなどが影響したという説だ。

 この論争は14年9月、米ハーバード大などのグループが英科学誌ネイチャーに発表した論文で決着した。京大など各国の研究機関の記録を解析した結果、チンパンジーによる殺害が確認、推定できたのは、1960年以降99件。発生率と人間の行為との間に関係性は見られず、攻撃側、殺害側の双方がオスばかりだったことなどから「生まれつき」が有力と結論づけた。

 一方、チンパンジーと最も近縁なボノボによる殺害は、疑わしい例が1件あるだけだった。

 ボノボが住むのはアフリカの中央部で、チンパンジーの生息地との間には広大なコンゴ川が流れる。250万~100万年ほど前にチンパンジーと共通の祖先から分かれたとみられ、以前は「ピグミーチンパンジー」と呼ばれていた。大人の見た目はそっくりだが、攻撃性はほとんど見られず、「平和主義者」の異名を持つ。

 何が両者の特徴を作り出したのか。



交尾を巡り競争

 京大霊長類研の古市剛史教授は、「性」が深く関わっていると見ている。

 チンパンジーは、子育てに長い時間をかける。メスは5~6年に一度しか出産せず、妊娠や子育て中はほとんど発情しない。オスは交尾の機会を巡って激しい競争にさらされる。

 さらに、将来や離れた場所の利益まで考えられるような高い知能も、オスの攻撃性につながったと見る。「競争相手を倒したり、食料条件の良い土地を手に入れたりした方が有利という判断ができるのではないか」

 ボノボのメスも子育てに時間をかけるが、発情期間が長く、妊娠や子育て中も交尾する。オスもメスも互いの緊張を和らげるため、頻繁に性器をこすり合わせるあいさつなどをする。「攻撃を仕掛けても返り討ちの危険もある。争う理由が少なければ無駄に戦う必要はない」と古市さんは指摘する。

 ボノボの生息地にはゴリラがいないため、橋本助教は「チンパンジーと違い、ゴリラと食べ物を競合することがないことも影響しているだろう」と言う。

 生き物は、体の特徴や性質を環境に適応するように変えながら進化してきた。人類学者の山極寿一・京大総長は「非常に近縁なチンパンジーとボノボでこれだけ攻撃性に違いがあるということは、そういった攻撃性は比較的短い期間で適応的(生まれつき)になるのかもしれない」と話している。

 <集団の特徴> チンパンジーもボノボも複数のオスとメスで集団を作り、メスは思春期になると他集団に移る。チンパンジーの集団はオスがメスより優位で、オス同士は順位を巡り争うほか、優劣などを確認し合うあいさつが見られる。ボノボはメス同士の連帯が強く、オスと対等以上。力のあるメスの息子ほど集団内の順位が高い傾向がある。2012年発表の研究によると、DNAはチンパンジーと0.4%、人間と1.3%違っていた。人間は、動物のような生殖のための発情はなくなったとされる。

(Asahi Digital科学の扉より)

人類の攻撃性、起源はどこに? 山極・京大総長に聞く: 続きを読むに記載
 

人類の攻撃性、起源はどこに?

 チンパンジーのオスの攻撃性は適応的(生まれつき)だけれど、ボノボにはみられない。非常に近縁なチンパンジーとボノボの間で、それだけ違いがあると言うことは、そういった攻撃性はわりと短期間のうちに適応的になるということを示しているかもしれない。

 人間においても、いま世界中でいろんな民族間や地域集団間で内紛が絶えなかったり、戦争が起こったりしますね。これは、ずっと昔から人間が持っている本性なのかというと、そうではありません。

 第2次世界大戦後に一時、そういうことを言いだした人がいます。レイモンド・ダートという南アフリカで アウストラロピテクス・アフリカヌスという古い人間の化石を発見した人です。彼は、1920年代にその化石を発見した後、アウストラロピテクス・アフリカヌスの骨をいくつも発見してきた。あるとき、その頭骨に同じようなくぼみがあるのを見つけ、人間同士が争った跡だと結論づけた。

 くぼみを付けたのは、人間が動物の大腿(だいたい)骨を使って殴った跡だというわけですね。その結果、200万年ぐらい前から、人間はすでに道具で動物を狩猟し、なおかつ狩猟具を使って人間同士が争う社会を作っていたと推測されたわけです。

 その典型が「2001年宇宙の旅」という映画の冒頭です。毛だらけの猿人の前に、宇宙から来たと思われる直方体の物体が現れる。それに霊感を受けたかのように、猿人たちはその辺にころがっている動物の大腿骨で狩猟することを思いつく。狩猟は大成功。そして、水場をめぐって他の集団と争ったときに、その大腿骨を戦いにも使いだす。

 人間は、戦争により、武器により、社会の秩序を守ってきた――。それは人間の原罪であり、本性であるというのが、その主要なテーマなわけです。

 ダートの説はその後、否定されました。なおかつ、そのころの人類は、狩猟する側でなくて、狩猟される側であることがわかってきました。つまり、肉食獣から追い詰められて食べられる獲物だったわけです。

 でも、あまりにその説の衝撃が強く、いまだに人々はそれを信じています。人間は狩猟によって進化し、狩猟の道具を戦いに使うことで、戦争に明け暮れるような社会を作ったという観念ですね。政治家も利用しています。

 しかし、事実は違います。人間はチンパンジーとの共通祖先から分かれ、500万~700万年は独自の進化の道を歩んできました。でも、道具が発見 されるのは260万年前からです。しかも、武器ではなかった。石を打ち欠いて、そのかけらの鋭利な部分で動物の死体から肉をはがしたり、骨を割って骨髄を取り出したりするのが、恐らくその石器の使用目的だったわけです。

 道具が狩猟に使われるようになったのは、わずか50万年ほど前です。最初は殺傷力の弱い、槍(やり)のようなものです。大規模な狩猟が始まるのは、現代人になってからで、20万年前をさかのぼらないわけですね。

 狩猟能力が、武器によってあっという間に進化したのは確かでしょう。でも、人間同士が戦いを起こすには、さらに時間が必要でした。人間が武器を 使って集団で戦い合った証拠は、せいぜい1万年ほど前でしか見つかっていません。これは人類が狩猟から、自ら食料を生産し、それを貯蔵して食べるという時代、定住して自分たちの土地を持つという時代になってからです。

 なぜ集団間の戦争に至る能力が、人間に高まったのか。大前提は、共感という能力ではないかと思っています。人間の家族は、共感によって作られてい ます。また、家族は単独ではあり得ず、複数が集まって共同体を作ります。それはどんな狩猟採集民でもそうです。複数の家族が集まり、共同体を作ることが、 生きるために欠かせないわけです。

 しかし、ゴリラもチンパンジーも、どちらかなんですね。ゴリラは一夫多妻の家族的な集団を作って、共同体がない。チンパンジーは複数のオスとメスが含まれる数十頭の集団がある。でも、その中に家族はありません。

 なぜなら、家族と共同体は相反する原理でできています。家族は、親は自分の子どもが誰よりも可愛く、子どもは親が誰よりも大切というのが原則。依怙贔屓(えこひいき)が当たり前の集団なんですね。だから何かあげても、お返しを期待しないでいい。

 しかし、共同体は互酬性が当たり前です。何かあげればお返しが来るし、何かしてもらえばお返ししなければならないと思う。そういう心でつながっているわけです。それは同じような共感ですが、原理が違う。人間はうまく両立させながら、生きてきたのです。

 なぜ、そんな変な集団を作ったのか。ゴリラかチンパンジーのような集団でよかったのではないか。ここが問題で、実はそれではやっていけない事態が起こりました。人間が熱帯雨林を出て、樹木のない土地へと足を伸ばしたからです。

 熱帯雨林は年中緑があって、豊富な食料がある。樹木の上なら地上の大型肉食獣から逃れて安全な場所で休める。

 でも、熱帯雨林を離れると、食料はまばらに分散し、乾期になるとなかなか得られない。だから、遠くまで足を運ばないと必要な食料が得られないわけです。また、地上の大型肉食獣にも狙われる。

 食料と安全性という点から非常に不利です。だから、食料を集めるためには、能力が近い小さな集団で動かなければならなかっただろうし、安全という面では、大きな集団のたくさんの目で警戒しなければならなかったでしょう。

 この二つの相反する課題を乗り越えるために、人間は結論から言えば、家族と、複数の家族が集まる共同体を作らざるを得なかったわけです。しかも、これは基本的には子育ての集団でもあります。

 恐らく、サバンナに 出てきた人間は肉食獣に子どもを狙われ、たくさんの子どもを失った。そのため、子どもを増やさなければならず、授乳期や出産間隔を短くして、多産になった わけです。なおかつ、人間の赤ちゃんはなかなか成長しませんから、お母さん1人では育てられなくなった。複数の家族が集って、育児集団を作らなければならなかったわけです。

 そうすると、いろんな分担をするようになる。食料をとりに行くもの、集団を守るもの、育児をするもの、居住条件を整えるもの、というように。そう しながら、自分の子どもに対して与えていた共感能力を、子ども以外の大人や他集団にも向けながら、生活力を高めていったはずです。複数の家族を含む共同体ができあがる時点で、人間は相当に高い共感能力を備えていたはずです。

 こうした高い共感能力に加え、さらにいくつかの契機が重なったと思います。具体的に言えば、一つは言葉。言葉は、時間と空間を越える能力を 持っています。自分が体験していないことを誰かに伝え、それを自分のことのように思い込むことができる。比喩もできる。そういうことによって、想像力が生まれ、それまでとは比べものにならないぐらい高められた。

 次に定住生活。それまでは狩猟採集で移動生活を送ってきたわけです。移動するため、持ち物が限られ、自分の所有物にしてしまうと、持って歩かなくてはならなくなる。だから、ほかの人たちとの共有が当たり前になる。

 また、獲物を追って移動するわけですから、集団の大きさや密度が限られてくる。集団同士、個人同士の出会う頻度が少なく、所有物が個人に帰される ものでなければ争いはあまり起きません。しかも、争いが起きたら離れ合ってしまえばいい。実際、現代の狩猟採集民はそういう解決の仕方をしています。

 しかし、あるときから定住生活が始まった。土地に投資し、そこで食料を蓄え、環境が悪くなった時期を耐えることの方が、移動生活より有利な時代がたぶんやってきたんだと思います。

 1万数千年前ごろから、だんだんと多くの人が定住するようになりました。そうすると、農耕は水場の権利や肥沃(ひよく)な土地が大切ですから、そういったものをめぐり、集団が住む土地の間に境界がひかれるようになる。こうした境界などが、争いのきっかけになったと思います。

 なおかつ重要なのが、集団の規模を保つために、死者にそのルーツを求め、死者を仲間に加え始めたことです。現代の狩猟採集民は墓を作りません。墓は、祖先によってこの土地は守られているという考え、その土地の権利を自分たちで主張する標識にもなります。

 人と人との結束を強めるためにも、祖先は必要です。ほとんど会ったことがなくても、祖先が同じだということで家族のように付き合える。祖先という目印をもとに、互いに助け合い、敵に立ち向かうという精神が育まれるわけです。

 共感能力は本来、人間の協力を高め、一つの行動に向かわせるために利用されてきました。それが、言葉、定住生活、死者によって爆発的に高められ、共同体を脅かす敵に対し、一斉に向けられるようになったと僕は思っています。

 しかし、自然界にもう人間の敵はいなくなってしまった。つまり、人間は自分たちの生活を拡大するために、今度は人間自身を敵にしてしまった。

 それは人間の進化の中では、極めて最近のできごとだと思います。いったん身についた共感能力は、なかなか衰えません。いうなれば、アレルギーみたいなものです。病原体の刺激に反応するはずの免疫力が、本来の刺激がなくなってきたときに別のものに向かい、爆発を起こす――。それが、いま我々が直面している事態なのではないか、と。
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