救いは我らに来たれり(BWV9)

 今日は三位一体主日後第6主日です。この曲は1732.7.20、ライプツィヒで初演されたコラール・カンタータです。BACHはライプツィヒの第2年目にコラール・カンタータを集中的に作曲しましたが、完全な年巻を完成できなかったため、後年これを補う作業が行われました。1932年にこのBWV9が補われました。


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 この日の福音書の章句は「殺すなかれ、人を殺したものは裁きを受ける」という律法の再解釈です。イエスは、自分は律法を廃棄するためではなく、それを満たすために来たと述べ、殺人の禁止を、すべての怒りや争いへの戒めとして解釈し直します。この曲はパウル・スペラートゥス作詞の同名コラールを基にしています。


 トン・コープマン指揮、アムステルダム・バロック・オーケストラ、サンドリーヌ・ピオー(S)、ボグナ・バルトシュ(A)、ジェームズ・ギルクリスト(T)、クラウス・メルテンス(B)の演奏でお聴きください。




1.コラール(合唱)

救いが私たちにもたらされた

恵みとただ慈しみの御心によって。

人の行いは何の役にもたたない、

それは私たちの守りにはならない。

だが信仰はイエス・キリストを見つめる、

私たちすべてのために十分なことを為してくださった方を、

彼こそが神と人との仲介者となられたのだ。

2.レチタティーヴォ(バス)

神は私たちに律法を与えられたが、私たちはあまりに弱く

それを守ることなど及びも付かなかった。

私たちはただ罪の道に従い、

正しい者と呼ばれるべき人は一人もいなかった。

霊は肉にへばりついたままで

罪にあらがおうとさえしなかったのだ。

私たちは律法の道を歩み

そこでまるで鏡に映すようにして、

私たちの本性がいかによこしまなものか知るほかになかった。

それなのに私たちはその罪にとどまるばかりだった。

自分の力では誰一人として

罪のよこしまから逃れることはできない、

たとえ自分の全ての力を呼び起こしたとしても。

3.アリア(テノール)

私たちはもはやあまりにも深く沈み込み、

深淵が私たちを飲み込もうとしている、

奈落はまさに死の恐怖を突きつけ、

そのような窮地にもかかわらず、

私たちにさしのべられる手はどこにもない。

4.レチタティーヴォ(バス)

けれども律法は成就されなければならない。

それゆえにこの世の救いが現れた、

いと高き神の子の救いが、彼は律法を自ら成就し

そして父なる神の怒りを鎮められた。

彼の罪なき死を通して

私たちに救いを得させてくださった。

今や彼を信じ、

彼の受難に依り頼むならば、

その人は滅びることがない。

神の国はあなたがた選ばれた者の前にある。

真の信仰を抱き

イエスに固くすがりつく者の前に。

5.アリア 二重唱(ソプラノとアルト)

主よ、あなたは善い行いには目を留めず、

その心の信仰の強さに目を留められます

あなたが嘉せられるのはただ信仰のみです。

ただ信仰だけが人を義とし、

その他の全てのものは、

私たちを救うためには無益なのです。

6.レチタティーヴォ(バス)

私たちが律法によって罪に気がつくならば、

それによって良心は打ちのめされる。

けれども私たちの慰めと言うべきなのは

私たちが福音においては

すぐに再び晴れやかに

喜びに満ちることだ。

まさにこのことが、また私たちの信仰を強めてくれる。

このことによって私たちは

神が慈愛をもって私たちに

約束された時を待ち望む。

しかしまた神は深い配慮から

その時を私たちに隠された。

けれども、私たちはそのことに満足する。

神はそれが必要な時を知り給い、

そして私たちに対しては何の策略も

必要とされないのだから。私たちは神を信頼し

ただ神のみに依り頼めば良いのだ。

7.コラール(合唱)

たとえ神には人を救うお気持ちなどなさそうに思えても、

そのことにおびえるな。

というのは、神が最も近く共におられるときは

神はそのことを明かそうとされないのだから。

神の言葉にさらに確信を持ち、

そしてもしあなたの心がただただ「否」と言うとしても

それでもなお恐れるな。

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