なぜインターネット上では常に誤解が生まれるのか?

言語の限界について

 「語りえないものについては、沈黙しなければならない」「人間の体は魂を写した最もできのよい写真」「言語の限界は世界の限界」といった意味深だが一見しただけでは意味不明な格言を残したルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは哲学者として知られていますが、工学や数学についても精通した人物でした。人工知能やコンピューター科学が発展する前に活動したにも関わらず、ウィトゲンシュタインの哲学には「なぜインターネット上のやりとりで誤解が生じるのか?」ということや「人工知能はどう発展しているのか?」ということを理解するヒントが隠されています。


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 ウィトゲンシュタインが哲学界に激震を走らせることになる「論理哲学論考(論考)」を発行したのは1912年のこと。論考は同じく哲学者であり数学者でもあるバートランド・ラッセル氏の議論を引き継ぎ、ウィトゲンシュタイン独自の理論を展開したもので、当時の論理実証主義に大きな衝撃を与えました。そして近年になって、論考は単なる哲学書ではなくコンピューター科学や人工知能、認知科学などの分野にも影響を与えています。

 論考は簡単に言うと、世界と言語の関係を明確に示そうとした本で、本の中でウィトゲンシュタインは「言語は厳密に世界を写しだしていて、言語と世界は同じ論理形式を持つことで、言葉は世界の『像』として機能する」という考えを述べました。つまり、言葉と事実は正確に対応しており、そこには定義が存在するということ。この形式論理的な思考は何十年もの間、コンピューター科学者や認知科学者たちの考え方の根幹でした。

 しかし、論考を発表した後、ウィトゲンシュタインは哲学から離れ、小学校教師や建築家として生計を立てることとなりますが、その間に考え方を大きく変えます。つまり、言葉は客観的で明確に線引きされたものではなく、論理によって現実世界の事実と厳密に対応しているわけではない、と考えるようになります。我々が発する言葉は文章という背景無しに意味づけできません。それは「我々が定義を知らない」からではなく、「定義そのものがない」ため、というわけです。我々が使用する言葉の概念は、それ自体を限定的と捉えることができません。これは「哲学探究」という著書の中にまとめられましたが、論考が「言葉は単一のものを示す」としているのと全く逆の内容でした。

 哲学探究の考えは言語学をさらに複雑にしました。言葉の意味を調べるには定義だけではなく、言葉が使われる状況や使われ方を分析する必要があるからです。また、ウィトゲンシュタインは人々が日常で言葉を使う時には「ルール」があるとしていますが、この「ルール」がさらに難解。ウィトゲンシュタインの哲学を研究していたデイビット・ピアーズ教授の解釈によると、「ルール」は裁判官が判決を行う時に法律を適用するのと同じで、「該当する法律が過去にどのようにして使われたか」に左右されると共に、未来の裁判を左右する新しい判例になる可能性もあると説明しています。


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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン


 つまり、言葉は厳密な定義を持たず、時間と共に歴史を重ねることで、新しい意味を獲得したり古い意味を捨てたりしながら、存在を進化させていきます。そのため、例え辞書に載っている単語であっても、刻々と意味合いが変化しており、まさに辞書に載っている「文字通りの意味ではない」わけです。

 この点、特にややこしいのが抽象的な意味の名詞。「犬」という言葉であれば今のところ使い方が一貫していますが、「愛」や「重さ」を明確な方法で定義することは、誰にもできません。それにも関わらず、私たちは日常的に「愛」といった言葉を使います。ピアーズ氏は「我々が叙事的な言葉を使う時に想定している『確固たる意味合い』はファンタジーです」と説明しました。

 例えば、フランス語で「ここ」は「ici」、「あそこ」は「la`」と言うのですが、「ペンはここだよ」という言葉をフランス語にすると「Le stylo est la`」となります。フランス語の「la`」は特定の場所もしくは位置に対して使うためです。一方で日本語や英語の場合は、漠然とした場所を指さして「ここ」という言葉を使うことも「あそこ」という言葉を使うことも可能。初めてフランス語を学ぶ人にとってこの違いは曖昧に思えますが、フランス語を母語とする人にとっては自明の理。なぜなら、そんな使い方をする人は誰もいないからです。誰かが明確なルールを決めているわけではないにも関わらず、人の意識と世界の相互関係によって、フランス人は物事の正誤を英語を母国語とする人とは別の方法で認識しているわけす。これが言葉と世界の関係です。

 1970年代、形式論理的な考えに基づき、コンピューターは命題の正誤を判断させていくことで、自然言語を理解できるものと考えられていましたが、実験は失敗に終わりました。


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 一方でGoogleは意味論を無視することで、人工知能を発達することに成功。つまり、Googleの場合、人工知能に言葉や文章の意味を理解させないで、「文章に頻出する単語は何か」ということや、「どの言葉と一緒に使われているのか」という点を基に人工知能に言葉を集めさせたのです。

 言葉の意味を理解しないため、「1ポンドは何オンスですか?」という質問には答えられますが、「オバマ大統領は就任して何年目ですか?」という質問に正確な答えを返すことはできません。「オバマ」「年」「就任」という言葉を拾ってオバマ大統領の説明や、就任式の情報を教えてはくれますが、「質問を理解する」こととはほど遠いと言えます。この問題は「文章を理解するということは、言葉を理解するということだ」というウィトゲンシュタインの1つの発言に集約されます。

 また、ウィトゲンシュタインの哲学は、インターネット上のコミュニケーションについても説明します。インターネット上での言葉のやりとりは日常生活よりも「言葉のゆがみ」が激しく、さらに人々がそのことを理解していないという問題を抱えています。やり取りの方法はより制限され、よりユニバーサルに、そしてより曖昧になっているためです。自分と相手の持つ言葉のルールが別個であると理解せずに対話を行う人があふれ、字数や時間が制限されることで、自分の定義を説明するだけの余裕もありません。

 インターネット上でしばしば論争が起こるのもこのため。権利やフェミニズム、人種差別について論争が起こるとき、人々は相手が使う言葉の定義について確かめることすらしません。インターネット上で自分の発言に対して誰かが激怒した場合、相手とやり取りする前にまず言葉の定義を明らかにする必要があるわけですが、いったん感情的になった相手が定義について素直に納得してくる可能性は少ないので、あとは口を閉じるか手段がなくなってしまうわけです。

(Gigazineより)
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