2000年後もソクラテスを嘆息させる強行採決

作曲家、伊東 乾のコラムより転載(JB Press掲載)

民主主義とは何なのか?

 ある人は「民主主義は多数決だよ」と言うかもしれません。多数が賛成したものが通る。国会でも同様です。いま法案が採決され、議会で多数を占めた意見が主権者の意思、民意であるとみなされます。


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伊東 乾


 では、100人の多数決の結果51:49で敗れた49はどうすればよいのか?

「この49も51に従って100という全体に従え!」という考え方を「全体主義」と呼ぶわけですが、日本では、たぶん義務教育に原因があるのでしょう、民主主義だと思い込んで、全体主義の主張を標榜する人をごく普通に見かけます。全体主義で分かりにくければファシズムと言ってもよいでしょう。

 ファシズムはズボンのチャックなどの「ファスナー」と同様「ひとつにまとめる、束ねる主義」、十把一からげにする政治体制を示します。

 100のうち49で多数決に敗れた意見は「少数意見」になります。この「少数意見」にも十分な配慮をしましょう、というのが「民主主義」で、日本は憲法以下、こちらの考え方で本来は動かされるべき国のシステムを持っています。

 これは、最高裁判所判例には少数意見が常に付され、法と同じ拘束力をもって司法規範とされていることを想起していただければ十分と思います。

 少数意見をめぐる扱いを見れば、民主主義とファシズムは容易に見分けがつきます。逆に言えば、少数意見の取り扱いを誤れば、民主的な体制は容易にファシズムの蒙昧に堕落してしまうことになります。よくよく注意しなければならないポイントです。


ソクラテスはなぜ告訴されたのか?

 ここで大きく歴史を振り返って「民主主義」の原点とされる古代ギリシャに目を向けてみましょう。

 哲学の祖とされるソクラテスは、よく知られるように「民衆裁判」の多数決で死刑判決を受け、毒ニンジンの杯を仰いで自ら従容として死を選択しました。

 さてしかし、ソクラテスは何の嫌疑をもって「死刑」の法廷に立たされたのでしょうか? そういった経緯はあまり知られていないように思います。


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 ソクラテスが訴えられた最初の容疑事実は、「彼は太陽が燃える石だ」と主張した、として訴えられているんですね。

 紀元前4~5世紀、日本列島であれば縄文人が竪穴住居で暮らしていた頃、ソクラテスは「恒星はマグマの塊」という説を主張したカドで訴えられ、「そんなことはない。私は太陽の神アポローンを正しく信仰している。私は無実である」と弁明しているんですね。

 「太陽は燃える石である」という大変な卓見を今から2500年近く前に主張していたのは、ソクラテスも教えを受けたとされる自然哲学の祖の1人、アナクサゴラスとされます。

 これに対して古代ギリシャのポリス社会、アテネ市民の大半は「太陽はアポローン神、月はアルテミス、海はポセイドン・・・」といった、神話による宇宙の説明を当然のものとして受け止めていました。

 はっきり書いてしまうと、迷信が正しいと思い込んでいた原始人集団の中で、科学的に妥当な内容を主張した、として糾弾されているのです。

 これとほぼ同じことを、人類は2000年ほど経過しても繰り返しています。ソクラテスの刑死(BC399)から1999年も経ったAD1600、地動説を主張したジョルダーノ・ブルーノが火あぶりで命を落としています。

 ジョルダーノ・ブルーノやガリレオ・ガリレイへの「地動説裁判」が不当であったことはその後300年以上認められず、20世紀も後半に入った1965年頃からようやく議論が高まり始め、教皇ヨハネ・パウロⅡ世が公式に名誉回復したのは冷戦終結後1992年のことに過ぎません。

 まだようやく23年ほどが経過しただけで、実のところ今から四半世紀前まで、カトリックは正式には地動説を認めていなかった形になっていました。

 それくらい民衆に広まった迷信や思い込みを取り除くのは困難で、人は容易にソクラテスやガリレイに死刑を求める多数決に走ってしまいます。

 「烏合の衆」という言葉がありますが、読んで字の如し、カラスが集まってがーがー騒いでも、なんら意味のあるものは出てきません。英語ではモブmobとかラッブルrabbleといった言葉に訳されます。

 ここで私たちは言葉の用法と適用の対象によくよく注意する必要があるでしょう。人は「烏合の衆」の言葉から、道路にあふれ出した群集のデモなどを想像するかもしれません。確かにそういうモブ=野次馬の集団というのもあると思います。

 しかしジョルダーノを火あぶりにし、ソクラテスに毒盃を仰がせたのは本来権威あるはずの教会であり民会であり、申請裁判であり「デモクラディック」な議会だったわけです。

 デモクラシーという言葉が長年「衆愚制」とも訳されてきたことに注意しなければなりません。さもなくば「衆議院」が「衆愚院」に陥るようなリスクを、私たちは全く逃れることができません。


「民意」の要諦:複数意見の尊重

 東日本大震災で津波被害にあった沿岸の多くの地域は、江戸時代以前からごく最近まで、この土地に人住むべからず、とされた、容易に水浸しとなる低地、水はけの悪い土地=有産な水田にほかなりませんでした。

 それらは1500年以上、第1次産業=端的には「米作り」には適し、人が住まいしたりするのには地誌的にそぐわない土地とされてきました。


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大津浪記念碑

高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな


 それが、第2次大戦直前の翼賛体制期あたりに端を発して、とりわけ戦後の高度成長期から、まったく別の目的に転用されてきたのが、ここ70年の私たちの歴史ということになります。

 そのほとんどすべては、地方議会での承認があり、多数決で認められて道路が作られ、電気ガス水道なども整えられ「都市化」「宅地化」したエリアにほかなりません。

 ここでの「多数決」とソクラテスやガリレイを裁く「裁判」を並べるとき、私たちは古代や中世、近世の意思決定を笑うことができるでしょうか?

 もっと露骨な例は昨年世間を騒がせたSTAP細胞詐欺でしょう。ある時期はメディアを中心におかしな擁護論が蔓延し、まさに大衆社会の病巣を直視する思いを持ちました。ああいうものこそ「烏合の衆」と呼ぶべきでしょう。

 地震や津波の予知など科学的には本質的に不可能です。それは「阿蘇山が次、いつ大爆発するの?」と問われて、まともな科学者なら誰も絶対に答えなど明言しないのと同じことです。

 逆に「阿蘇山は次 20++年○月△日に爆発する」などと明言する人がいれば、仮に宗教を標榜しようと何だろうと、100%詐欺師と断じて外れません。そういう明らかなデマを言う表現の自由が野放しにされているのも「民主政」の「衆愚政」化リスクの1つと思います。

 このコラムで特定の結論を述べようと思っていません。1つだけ言えることは、民主主義が人類の叡智として機能する絶対条件は、少数意見、それはしばしば複数存在しますから、複数の異なる少数意見の持ち主たちの尊重、つまり自分自身がモノを考えるとき、単眼視的な落とし穴に陥らず、常に複数のリスクを念頭に、理非をわきまえながら思考し続ける大切さにほかなりません。

 これはテレビ的ではないのです。私も昔は番組を作っていましたので「分かりやす~い」単一のストーリーを押しつけて視聴者を引っ張る方がよほど視聴率の数字も取れ楽なのですが、倫理的に考えればまずもって最低最悪なことにも簡単になってしまいます。

 ネットコラムは文字で記され、読者は読んだり、読まなかったり、立ち止まって考えたり、前の方に戻って読み返したり、様々な「思考の自由」が本来保証されています。

 脊髄反射的な直情径行は元来テレビその他のメディアの持つリスクですが、ネットでも「ブログ炎上」といった現象が見られます。

 一過性の放埓はブームが去ると誰もが飽きて見向きもしません。2015年も後半に入って「偽ベートーヴェン」とか「STAP」といっても、今さら何を、といった白けた失笑が漂うでしょう。

 今、私たちが直面しているいくつかの問題、盛りが過ぎたら誰もが飽きてしまい、白けた失笑で向き合ってよいものなのでしょうか? 

 ソクラテスは「悪法もまた法なり」と言いつつ、微笑を浮かべながら毒盃を仰いだようですが、さて、本当に世界を見据えた定見、息長く未来に責任を持てる思索と行動とは何なのでしょう?

 一人ひとりが本来それを問うのが「民主主義」の根本、衆愚 に陥らない大前提の源流にほかなりません。


伊東 乾:作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督

1965年東京生まれ。東京大学理学部物理学科卒業、同総合文化研究科博士課程修了。2000年より東京大学大学院情報学環助教授、07年より同准教授、慶應義塾大学、東京藝術大学などでも後進の指導に当たる。若くして音楽家として高い評価を受けるが、並行して演奏中の脳血流測定などを駆使する音楽の科学的基礎研究を創始、それらに基づくオリジナルな演奏・創作活動を国際的に推進している。
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